ゲスト対談:日本銀行 副島さんに金融の歴史とこれからを聞いてきた~前編~(日本銀行 副島 豊さん)

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「マネーフォワード Fintech研究所 瀧の対談シリーズ」の第11回をお届けします。今回は、日本銀行金融研究所長の副島 豊さんをゲストにお迎えし、日本銀行に入行された当時の情勢や日本銀行でのお仕事、1980年代後半からの日本の金融政策や金融の歴史などについてもお話しいただきました。本対談は全3回でのお届けを予定しておりますが、前編の今回は、副島さんのこれまでや、日本銀行に入行された当時のお仕事などについて伺った内容をご紹介します。

今回のゲスト:日本銀行 金融研究所長 副島 豊さん

2021年9月より日本銀行金融研究所長。1990年に日本銀行に入行し、金融研究所や金融市場局、金融機構局、決済機構局、調査統計局などで主にリサーチ業務に従事。90年代よりAIを活用した調査やビッグデータ解析、ネットワーク分析、シミュレーション分析、GIS、テキスト解析など多様な手法を中央銀行リサーチに導入し、多様な部署のリサーチフロンティアの拡充やリスク計量などクオンツ業務やマクロプルーデンス、決済システム解析、景気・経済構造調査などを行う。

はじめに

この度はお時間をいただきありがとうございます。このFintech研究所ブログの対談は固定されたテーマではなく、ゲストの方の専門領域など広いテーマからお話を掘り下げさせていただくような形式をとっていまして、是非ざっくばらんにお話を伺えればと思います。

副島さま(以下、敬称略)

よろしくお願いいたします。

副島さんは日銀の第三代Fintechセンター長を務められました。私はエンジニア思考のとても強い方なのではと思っているのですが、副島さんが日銀に入行されるまでについてお聞かせいただけますか。

(対談の様子: 副島さん(左)と瀧(右))

副島

私はバブルピーク期の1990年入行です。日銀に就職しようと思った直接的なきっかけは、大学時代のゼミの先輩に声をかけていただいたことでした。当時は、4年生の夏の解禁日に一斉に採用面接が動き出して、短期間のうちに内定が決まるという世界でした。そんな世相通り、日銀に面接を受けに行ったところ、あっという間に内定を頂いて、本格的な就職活動を始める前に私の就職活動は終わってしまいました。

大学では経済学を勉強しており、もっと勉強をしてみたいと思っていたのですが、大学院に進むガッツも経済的余裕もなかったですし、卒業後はシンクタンクなどに就職することになるのかなぁとぼんやりと考えていました。そんな時、日銀に就職した先輩から「日銀に来てみたらどう?」と声をかけていただき、面接を受けたというかなり緩い動機でした(笑)。

就職活動の準備はされておられたのですか。

副島

当時は空前の売り手市場だったこともあって私のように働いている先輩から誘われるというケースも多かったのですが、もう少し真面目な友人だと業界調査などをして就職活動に臨む人もいました。私が入行した数年後からは就職氷河期といわれるとても厳しい状況になったので、大変そうな話を聞いて非常に申し訳なく思っていました。

日銀に入行された当初はどのようなお仕事をされていたのですか。

副島

入行後は、営業局という部署に配属になりました。現在は消滅してしまったのですが、金融機関のモニタリングや窓口指導を行う部署で、地域銀行や信用金庫を担当するグループに配属されました。窓口指導とは金融機関の貸出量の上限を決めるものです。どれだけ貸出を行うかという銀行にとって非常に重要な経営戦略について、中央銀行が上限を設定していたのです。教科書にあるような市場原理とはかけ離れた世界があって驚きましたが、社会制度とはそういうものなのだという順応も早かったです。

バブル期後の日本の金融市場

とても面白いです。経済を計画しているような側面がある中で、資金需要がとても旺盛で融資を受けたい企業が多かったということなのでしょうか。

副島

資金需要が旺盛であるため、引き締めだけでなく緩和的な金融政策も有効に作用することが高度成長期や安定成長期の特徴といわれていました。緩和しても上限いっぱいまで貸出が出ていくならば、金利という価格だけでなく貸出数量のコントロールが引き締め緩和の両方向で可能だったわけです。その後、低成長期に入り、こうした関係は成り立たなくなってしまいました。

金融自由化の話に戻ると、預金金利の自由化が80年代後半から進み、少し先行して国債市場では流通市場ができ始め、市場で価格形成が行われるようになりました。今の人には一体何の話をしているのか理解不能だと思いますが、 預金も国債も規制下にあって、最初の頃の国債なんて買ったら途中で売ってはだめで、満期まで持ち切らないといけなかったのです。そして流通市場ができても、指標銘柄といわれる特定の国債に売買が集中していました。全体の流動性が低いので市場の厚みを出すにはそうせざるを得なかったわけです。イールドカーブ(注1)を作成する際は、粗いスカスカの点と点を直線で結んでいました。

90年代に入るとデリバティブ市場の発展が金融市場を変えていきます。金利スワップ市場は銀行ALM(注2)の中核金利体系となり、スワップカーブがデリバティブの現在価値プライシングの基盤となっていきます。国債も債先、指標銘柄と発行直後のオンザランだけの市場から、カーブが引けるぐらいの流動性が生まれだし、4年債6年債が5年債に集約され、レポ市場は短期資金市場や国債現物・先物市場の発展を促していきました。超長期債も登場してきます。

ちなみに、日銀の金融研究所に「フィナンシャルエンジニアリング」の研究班が発足したのもちょうどこの頃です。1994年ですね。そのちょっと前に支店から金研に帰ってきた私は、経済研究のほうにいました。デリバティブ市場の発展や新しい金融商品のリスク管理が世界的に議論されており、その辺りの統計作成や、プライシング、リスクの計測と管理手法、規制のデザインに関するリサーチの必要性が高まってきました。クオンツ人材が必要になり、当時の都市銀行や証券、生損保など実務家の方や学界の先生方と意見交換をしたり、日銀への出向・客員研究員という形で来ていただいたりしていました。

そのチームがサン・マイクロシステムズ、なつかしの”Solaris”ですが、そのサバクラ環境を立ち上げたので、リソースを借りてニューラルネットで金融政策反応関数を推計したりしていました。80年代のバックプロパゲーション技術、いわゆるAI第二世代の応用です。家では日本上陸直後のDELLのPCにRed Hatを入れてLinuxをポチポチさわってプログラミングの勉強をしていました。マクロ経済分析では、2000年代初にDSGEモデルが従来のケインズ型マクロモデルを置き換えていくのですが、その先駆体となったRBCモデルのカリブレーションを研究所でやったりもしていました。ただの新しいもの好きですね。

(注1)横軸に残存期間、縦軸に利回りをとり、残存期間が異なる複数の債券の残存期間と利回りの関係を表した曲線を指す。

(注2) 資産と負債を一元的に総合管理する手法を指し、様々な満期や金利水準を持つ負債や、多様な金融資産の金利リスク・価格変動リスク、流動性リスク、信用リスクなどを一体管理するもの。

90年代半ばの日銀というのは世界的にみて先進的だったのでしょうか。

副島

どこの中央銀行も、新しい金融市場や商品、市場構造の変化に対応していくのに必死だったのだと思います、BIS(注3)には銀行監督のバーゼル委員会だけでなく市場のモニタリング・オペ関係者が集まるCGFS(注4)や、決済関係者のCPSS(現CPMI)(注5)など複数のコミッティがあります。日銀からも多くの貢献をしたり他中銀から学んだりで、いっしょに新しい金融のフロンティアを走っていました。90年代末には金融市場局でこうした国際的な議論に加わる機会も得ました。マクロ経済分析では、国際コンファレンスを開催して世界トップクラスの学者を招聘したり客員研究者にお招きして、先端的な議論を行っていました。こうした仕事は今でも続いています。

(注3) Bank for International Settlements(国際決済銀行)。中央銀行をメンバーとする組織で、中央銀行間の協力促進などを通じて金融システムの安定を追求する。Webサイト参照

(注4)BISグローバル金融システム委員会。国際金融市場の潜在的なストレス要因を特定・評価し、金融市場の構造を支えている諸要因に対する理解を深め、国際金融市場の機能と安定性を向上させることを目的とする。

(注5)BIS決済・市場インフラ委員会。支払・清算・決済システムなど金融インフラの調査分析・オーバーサイトや、中央銀行による決済インフラ運営を含む支払決済に関する政策策定などを通じて、金融経済の安定および発展を目的とする。

日本銀行でのお仕事

ありがとうございます。そこから副島さんの今のキャリアに至るまでのお話を伺いたいです。

副島

わかりました。最初に大きく括ってしまうと、中央銀行でリサーチを必要とする部署が時代とともにどんどん増えていって、その先兵隊として色んな部署をぐるぐるまわったというのが私のざっくりキャリアです。

最初から行きましょう。私が日銀に入った頃は調査統計局、外国局(現国際局)、金融研究所の3つの部署が主にリサーチ周りの業務を行っていました。そんな中で、金融自由化によってマーケット分析のニーズが高まり、市場部署にリサーチ文化が定着しました。米国に留学して帰ってきたら営業局が他局との再編成で金融市場局という名称になっており、発展を遂げるマーケットと向き合っていくという時代になりました。対金融機関の仕事は考査局にオフサイトモニタリングとして移り、国際局の仕事の一部を取り込みました。先ほどのBIS-CGFSもそれです。

不良債権問題と金融システム危機は、考査局にも変化をもたらしました。銀行のリスク計量やリスク管理、新しい金融商品への対応は、90年代からリサーチ需要を生んでいたのですが、新たな流れが加わりました。マクロプルーデンスや金融システム安定という概念です。もともと考査局では個別金融機関の健全性をチェックしていました。ただし、個の総和ではシステムの振る舞いを捉えることはできないですし、何より実体経済と金融システムがどのように相互に複雑に影響しあっているか、そういう視点はあっても明解な分析ツールはありませんでした。そこで、モデラ―の民族プチ移動が起こり、調査統計局や金融研究所にいるようなエコノミストが新領域に入り込んでいったのです。金融システムレポートの創刊がその象徴ですし、考査局から金融機構局に名称変更されたのもその時期でした。市場や金融システムをネットワークとしてとらえようという視点や分析ツールも導入していきました。

さらにこの動きは決済領域にも広がりました。決済システムは、資金や証券をAさんからBさんに正しく、安全に、早く、何があっても確実に、移転するための装置で、それを実現するためのアルゴリズムとインフラと法制度やルールの固まりです。そのため、アルゴリズムを考えたり、シミュレーションをしたりする文化はもともとありました。RTGS(注6)に部分的にネット決済の効率性を取り込んだ次世代RTGSシステムの検討ではシミュレーターが活躍しました。今風にいうとデジタルツインですね。そういえば、人工証券市場でオーダーマッチングルール変更の影響の検証を行うというマーケットマイクロストラクチャー研究(市場の細かい制度設計が市場機能に及ぼす影響の分析)もデジタルツインの応用例でした。

2000年代後半にはサブプライム問題やリーマン破綻に始まる欧米を中心とした金融システム危機が生じ、決済インフラや市場構造、市場慣行に関するグローバルな規制・基準見直しが始まりました。清算機関への取引集中義務や、マージンモデルやストレステストの妥当性、プレーヤーや商品を介した決済システム間の繋がりに起因するリスクの伝播など、一気に分析色が強まりました。この時期、CPSSの国際基準策定に参加しており、金融研究所2回目の勤務となっていたフィナンシャルエンジニアリングチームでの技術が大変役に立ちました。

振り返ってみると、定量リサーチが未開の地をちょっとずつ開拓していくような日銀人生だったと思います。自分的には秘かに「リサーチ屯田兵」と呼んでいます。分析スキルという鍬一本をかついで異文化コミュニケーションに入っていって、元々あった文明に違う文化や農作物が溶け込んでいくみたいな感じです。その過程で、日銀のフラッグシップ的なレポートを立ち上げる機会にも恵まれました。さきほどの金融システムレポートもそうですが、市場局にいた際にマーケットレビューという三つ折りA4両面6ページのショートレポートを立ち上げる機会がありました。今は日銀レビューに名を変えていますが、レイアウトやカラーイメージはかなりそのまま残っています。決済システムレポートのリニューアルも楽しみながらやらせてもらいました。デザインって楽しいですよね。システムのデザインもメディア広報のデザインも。

(注6)Real-Time Gross Settlement(即時グロス決済)の略であり、時点ネット決済と並ぶ中央銀行における金融機関間の口座振替の手法の一つ。

(対談の様子: 副島さん(左)と瀧(右))

すごいですね!1990年〜2000年代に日銀がある種のトランスフォーメーションを実行していったということですね。

副島

明治の銀行システム創成期も戦後の高度成長期も、そして今も中銀ビジネスは常に変わり続けています。CBDCが典型例ですね。中央銀行のDXです。

前半の記事はここまでです。中編ではマネーシステムの変革期にある現在の動きをCBDCを巡る世界の動向とあわせて伺った内容をお届けします。

※中編も近日中の公開を予定しております。

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