ゲスト対談:長く読まれる翻訳とは(翻訳家:村井章子さん)

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「マネーフォワードFintech研究所 瀧の対談シリーズ」と題し、第一回は株式会社バリューブックスの中村様との対談をご紹介したシリーズの二回目をお届けします。今回は、ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』(日経BP社)やジャン・ティロール『良き社会のための経済学』(日本経済新聞出版社)など、主に経済書の翻訳を手がけておられる翻訳家の村井章子さんをゲストにお迎えし、海外の専門書を翻訳されるに至った経緯や、文章表現の流儀などをテーマにお話いただいた内容をご紹介します。

対談に至った背景として、瀧が以前よりファンだったことに加え、当社法務コンプライアンス部で勤務しておられる村井結さんの御母様であることが偶然判明し、是非お話を伺いたいとお願いしたことで今回の対談が叶いました。

(※この対談は2020年2月11日に実施されたものです)

今回のゲスト:翻訳家 村井章子さん

上智大学文学部を卒業後、商社勤務を経て1985年にフリーランス翻訳者として独立。自動車・機械のマニュアル類、年次報告書、契約書などの産業翻訳を手がけていたが、2000年頃から出版翻訳に転じ、今日に至る。主な訳書に『資本主義と自由』、『ファスト&スロー』、『良き社会のための経済学』など。三児の母。

はじめに

瀧)本日はよろしくお願いいたします。

村井)こちらこそ、よろしくお願いいたします。

瀧)私事で恐縮ですが、好きな経済書の訳者が何名かおられるなかで、かねてより村井さんが翻訳された本をたくさん拝読していました。今回改めて、翻訳されてこられた本を検索したところ、ほとんど読ませていただいていたものばかりだったのです。

もともと私は証券会社で調査を行っていた経緯もあって、思考の1/3がマクロ経済学、1/3がミクロ経済学とゲーム理論で、残りがFintechでできている人間だと思っています。もしかすると、考え方の趣向が近いのではないかと思っており、お話をお願いした次第です。

村井)そうでしたか!ありがとうございます。

自動車のマニュアルから始まった

瀧)村井さんが翻訳される本の領域はとても広く、難易度も高いと思うのですが、今のお仕事に至られた経緯をお聞かせいただけますか。

村井)元来、文章を書くのが好きだったことが翻訳家の道につながったと思います。社会人の最初は三井物産に事務員として入社し、アフリカ向けに鉄道車両を輸出するセクションに配属されました。フランス語専攻だったこともあって、仏語圏の国の入札、契約書などを翻訳会社に発注する業務を担当していました。そのなかで初めて産業翻訳という分野があることを知り、興味を惹かれたというのがあります。そこで数年経験を積んで、独立したという流れになります。

独立後、最初は自動車関連の産業翻訳を専門に扱う会社と縁があり、ルノーの自動車のスペック、修理マニュアル、運転マニュアルをフランス語から翻訳する業務をしていました。その後、英語の仕事も依頼いただくようになり、ベンツのマニュアルとかの翻訳もしていました。

瀧)となると、ひょっとして車の仕組みについてはすごく詳しいのですか?

村井)そうですね。車の運転は自信がないですが、タイヤ交換の仕方とか、どこにスペアタイヤが入っているかなどは詳しくなりましたね。

自動車マニュアルの翻訳をするうちに、ルノーのアニュアル・レポートの翻訳をやってみませんかという声を掛けていただいたり、日経新聞の外注翻訳者として、当時の日経金融新聞で、外国人アナリストのコラムの翻訳を毎日書いたりしていました。それから、日経新聞の『経済教室』をさせていただいたあたりから翻訳の領域が広がっていきました。

瀧)たしかに、経済教室を読んでいると、たまにこの外国のアナリストすごく日本語がうまい、と感じることがあります。

村井)あはは。ああいうものも必ず裏で翻訳者が訳しているんです。最近ではフィナンシャル・タイムズの仕事もいただくことがあります。ああいううまい書き手の場合、これは皮肉なのか本音なのかの判断がとてもむずかしく、解釈を誤ると全体的な論調も変わってしまうので、悩ましいです。

出版業界に活躍の場を移された2000年頃

村井)出版業界に移ったきっかけは、ハーバード・ビジネス・レビューの翻訳を担当した際に、編集者の方に気に入っていただき、ダイヤモンド社さんからお声を掛けていただいたことでした。最初は経営関連の書籍が多かったのですが、フィッシャー・ブラックの評伝から徐々に経済書も翻訳をさせていただくようになりました。

ブラックの評伝では、東工大のオペレーションズ・リサーチの権威であられる今野浩先生にお世話になりました。色々と知識を教えてくださったり、訳のご指摘をいただきました。その後、経済領域の出版本の翻訳に本腰を入れる決定打となったのが、『資本主義と自由』の翻訳に携わったことだと思います。

瀧)そうだったのですね。もっと以前から村井さんのお名前を目にしていた気がしていました。

村井)実は出版本を翻訳のメインにしたのは2000年頃からで、それまでは実務翻訳の分野で生きていくつもりでした。本当にひょんな事から、経営や経済書に関わるようになったのです。

『資本主義と自由』については、世の中にフリードマンを批判的に論評する本が多い一方で、誰も原書を読んでおらず、読める日本語で出版したいという編集者の方のお考えがありました。同時に別の方がフリードマンの評伝を担当されていたので、セットで出版しようという話で事が進んでいました。

ところが偶然にも同じ頃、ドラッカーの『マネジメント』の版権が取れたんですね。そこで、新しく「日経BPクラシックス・シリーズ」を立ち上げ、その第1作・第2作として出版することが決まりました。

瀧)すごいですね。正直、同著は聖書みたいな存在です。経済学の書籍を長年担当された方が手掛けるような著作が、初めての仕事だったというのは驚きました。

村井)当時は何も知らなかったこともあり、「ノーベル賞学者なんだ」くらいに捉えていました。ところが翻訳にとりかかってから「すごい本なのだ」と気付くと同時に、かなり難しい本だと実感しました。「クラシックス・シリーズ」の第1作目として出版することになったので、装丁にもかなり時間を要したのですが、逆にそのあいだに訳をじっくり練り直すことができました。訳文を考えている際に、第三者が読んで理解できる文章なのか知りたかったので、編集者の了解を得て娘に訳文を読んでもらいました。娘からは「この箇所、さっきの内容と食い違うんじゃない?」など意見をもらったこともあって、今でも印象に残る一冊となっています。

瀧)そうすると、技術翻訳から経済学の翻訳の世界に飛び込まれたのは、2000年前後なのですね。

村井)はい。経済に興味があった背景は、私の周りの人間が経済学を得意とする人が多かったことも原因かもしれません。父や友人も経済学を修めていた人が多く、経済理論について尋ねると「それはあってる」とか「ここはおかしい。こういう意味だと思う」などとアドバイスをしてくれたことも心強かったです。他にも一時期、アニュアル・レポートの翻訳を年間300冊ほどしていたことも影響しているかもしれません。

瀧)300冊!!それはすごい数ですね。

村井)日経新聞社が当時発行していた「外国会社年鑑」で、外国企業の年次報告書から財務に関する報告書を読み、各企業の情報をまとめる作業を10年近くしていました。商社にいた時に契約書の翻訳が多かったのですが、論理的かつ読み手が理解できるように訳すことが求められるという点で、似ていると感じました。

瀧)それにしても、論理的で長大な本を得意とされていることに尊敬します。村井さんが他で翻訳に携わられたピケティやティロールの本もなかなかボリューミーですよね。

村井)そうですね、ティロールの場合はフランス語なのでまた別の意味で大変でしたが。

瀧)なるほど、確かに。原著はご専攻のフランス語ですよね。

村井)はい、私は元々フランス語から翻訳を始めたので、原著から訳せたことはうれしかったです。じつはフランス語で書いたのちにティロールご本人が英語版を出されているんですね。確認したところ、英語版では表現をかなりシンプルにしていると感じました。ただ、英語版はあくまで英語版であって、英訳ではないので、版権も別なんです。だからそれを参考にするわけにはいかないので、原著のまま訳を完成させました。

私はよく編集者の方に、ヨーロッパのものをやりたい、それから長く読まれるものをやりたいとお願いしています。最近だとキッシンジャーの評伝は、イギリスの歴史学者の書いたものですし、以前から政治関連の本を一度訳してみたいという思いもあり、楽しんで翻訳させていただきました。政治は時事性が高く、急いで仕上げなければならないものが多いなか、キッシンジャーはそれほど急いで翻訳をする必要がないので、お引き受けしたんです。じっくりと翻訳することができ、とても勉強になったなと思っています。

村井さんの翻訳スタイル

瀧)素朴な疑問で恐縮なのですが、日本語・英語共に速読なのでしょうか。

村井)やはり職業柄、普通の方よりは早いかもしれませんが、特段早いわけではないと思います。例えば、本の版権を取るか否かを決める際、原著を読むリーディングという仕事を編集者からいただきます。その期間ですべて読むことはできないですが、一方で速く読んでも内容が入らないので、目次、前書き、最終章を読み、重要と思われる箇所に目を通すなどして、内容をおおまかに理解するという作業をよくしています。

瀧)私もよくその手法をやるのでよくわかります。ちなみに翻訳のお引き受けまではどのような手順を踏まれているのでしょうか。

村井)大きな本の場合は、版権を各出版社が入札します。その際、著名な学者の方のものは競争率が高いです。次に、版権をとった出版社がどの翻訳家に依頼するかを決め、その後翻訳家が引き受けるかどうかを検討するというフローになります。ごく稀に、リーディングをした出版社が版権を取れず、他の出版社からその本の翻訳の依頼がくることもあるそうですが、業界の倫理的には問題がないとされています。

瀧)なるほど。一度翻訳を始めると、どのくらい続けて集中されるのですか。

村井)のめり込んで一気に書き上げるというイメージを抱いておられる方がいらっしゃるようですね。作家さんの場合はそうかもしれないですが、翻訳の場合は作業なので、飽きたり集中力が切れたりします。細かいところで手が止まってしまったり、逆に調子がいいときは早く進むときもあります。本にもよりますが、自分でノルマを「一日最低3~4ページ」と決めて作業するようにしています。

瀧)なるほど。そうすると、300ページくらいのものを100日前後で仕上げられておられるのですか。

村井)はい。私は3ヶ月で納品する予定で作業し、1ヶ月くらい見直しや調整をする時間が必要なので、計4ヶ月ほどいただくようにしています。最初に原著に目を通して、最初の1ヶ月ほどで「これは3ヶ月では終わらない」というのはわかるので、その場合はすぐ編集者の方に相談しています。

瀧)夏休みの宿題のように後ろ倒しにしてしまうことはありませんか。

村井)そうなる翻訳家の方がいらっしゃることは聞いたことがあります。ただ、私の場合はそうではないと言わせてください(笑)。私は、子どもがまだ小さい頃から翻訳の仕事をしており、不測の事態に備えて先行して仕事をするという癖がつきました。なので納期に遅れるということは、これまで一度もありません。

文をしたためる流儀

瀧)素敵です(笑)。村井さんの講演記事を拝読したなかで、言葉のチョイスや日本語の流儀について伺いたいのですが、村井さんのスタイルはどのように身につけられたのでしょうか。

村井)言葉や文章表現は人それぞれ生まれつき持ち合わせていると私は思っています。私の場合はスッキリ書く能力があると思っているので、逆に華麗だったり流麗な文章は得意ではないのですね。文章を書くことは誰にでもでき、訓練である程度の水準まで上達すると思いますが、個性は染み付いて離れないものではないかと思います。

文章のスタイルとして参考にしているものですと、『理科系の作文技術』ですね。読者の負担を減らすということは座右の銘にしています。

そもそも難しい内容を読者は読んでいるので、細かい箇所などで読者を惑わせず、著者の核心である主張部分を考えてもらえるような伝え方を常に意識しています。

それ以外ですと、『日本語の作文技術』の著者である本多勝一さんの『直結』の原則という考え方はとても素晴らしいと思っています。私は、語順を変えるだけで文章は読みやすくなるというテクニックを講演会ではアドバイスしました。

瀧)遥かに低い次元の話になりますが、留学時のGMATの試験で「簡潔に伝わる文法を選べ」という問題にとても苦労したのを思い出しました。

村井)引っ掛け問題として出されたりしますよね。翻訳者も、一度翻訳した後に読み直す際、「初めて読む人が理解できるか」という目線が、重要な素質の一つだと思います。誰しも自分の文章に酔いしれ「これは名訳だ」と思ってしまいがちです。しかし、「読者が通しで読んだ時に全体像を掴んでもらえるのか」という観点で文章を書くことで、深読みしすぎによる整合性の不一致や細部の訳の間違いに気づいたりします。

「長く読まれる」ことを意識する

瀧)ちなみに私が新聞で連載している駄文をお読みいただいたとのことで、是非ご批評含めてお聞かせください。

村井)いえいえ、批評なんて。記事やコラムは書籍と読者層が違うので難しいなと思いました。本の読者層は高校生からお年を召した方まで幅広いですし、手元にある期間も長いので、少し古めの表現を使うことを意識しています。

瀧)知り合いの経済学者も長持ちする文章を書きたいと言っていました。以前、当ブログの対談シリーズで、長野県の「バリューブックス」という企業にお邪魔したのですが、倉庫を見せていただくと、一箇所からまとめて買い取られた専門書がそのまま保管されている様子がみてとれました。一見無秩序に見える本の集合体は、それぞれのお宅で大事にされてきた本棚の集まりなんだなと感じたんです。経済的にすぐ報われないかもしれないけれど、長く読まれる良い本が、これからも世の中に出される重要性を改めて感じました。

村井)おっしゃるとおりですね。翻訳者の特権なのですが、ずっと3カ月も4カ月もつきあっていると、著者の人間性を感じ取れるようになるんです。「文は人なり」という言葉にあるように、文章を通じて人柄を感じ、翻訳にそのニュアンスを少しでも反映させたいと思っています。アダム・スミスの『道徳感情論』を読んだ時の「いい人だな」という所感を、行間や言葉の選び方の細かい積み重ねで表現できれば、翻訳家として嬉しいことだなと思います。

瀧)本を読んで「いい人」と感じるとのことでしたが、私はたまに、理論系の経済学者はどこかに優しさを残した人でないと成り立たない気がしています。やはり大元で目指しているものに哲学的な要素がないと、ともすれば実証が目的化した統計学になってしまうと思うので、そのような雰囲気も本を通じて受け取れると良いなと思っています。

まったく異なる質問になるのですが、村井さんがお好きな本や、逆に自分で翻訳できず悔しかった本はありますか。

村井)やってみたかった本はエマニュエル・トッドの『La Chute finale(最後の転落)』ですね。ずっと翻訳してみたかったのですが、版権の関係で叶わず、とても残念でした。この書籍は、特に数学による社会学の分析が多い点に惹かれました。他にはマイケル・ルイスの『マネー・ボール』を読んだときに「これをやりたかった!」と思いました。以前からスポーツに関する本を翻訳したいと言っていたのですが、未だ叶っていません。

瀧)マイケル・ルイスですか。私も留学前から彼の本を読んでおり、今起業している背景に少なからぬ影響があります。人物像にフォーカスして文章を書くことに私は憧れているので、もし本を書くのであればそんな書き方ができたらなと考えたりしています。

お時間になってしまいました。村井さんは、お越しいただく前から思い描いていた通りの方で、ドキドキしながらテンション高くお話させていただきました。本日は本当にありがとうございました。

村井)こちらこそ、以前バリューブックスさんとの対談を読ませていただき、すごく聞き上手な方だなと思っていました。今日はとても楽しく過ごさせていただきました。ありがとうございました。

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