ゲスト対談:官民の人材交流とリボルビングドア~前編~(株式会社メルカリ 吉川 徳明さん)

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「マネーフォワード Fintech研究所 瀧の対談シリーズ」の第7回目をお届けします。今回は、株式会社メルカリ 会長室政策企画ディレクターの吉川 徳明さんをお迎えし、官民の人材交流や官民で人材が流動的に行き来する「リボルビングドア」などについて伺った内容を前後編に分けてお届けします。

今回のゲスト:株式会社メルカリ 会長室政策企画ディレクター 吉川 徳明さん

2006年、経済産業省入省。商務情報政策局でIT政策、日本銀行(出向)で株式市場の調査・分析、内閣官房でTPP交渉などに従事。 2014年からヤフー株式会社に入社し、政策企画部門で、国会議員、省庁(警察庁、金融庁、総務省、経済産業省、環境省等)、国内外のNGO等との折衝に当たる。 2018年4月、株式会社メルペイに入社し、政策企画チームの立ち上げを担う。チームの立ち上げと並行して、フリマ等のEC分野やキャッシュレス決済や少額与信等のフィンテック分野を中心に政府の審議会等で政策提言に従事。

はじめに

(以下、敬称略)

瀧)本日はお時間をいただきありがとうございます。

Fintech研究所ブログの企画として、各方面に精通されておられる方をお招きし、その方ならではお話を伺い、読者の皆さんにお届けできたらと思っています。よろしくお願いします。

吉川)よろしくお願いします。大学のゼミの先輩である小島武仁さんの記事を拝見しました。ちょうど小島さんがアメリカから帰国し、東京大学マーケットデザインセンターを設立されたタイミングの記事だったので、とてもいい時期に対談をされたなと思いました。

瀧)ありがとうございます、そうなんですよ。ご近所さんだったという縁で、無理を言って出て頂きました。

今日は、吉川さんのこれまでのご経歴に即しながら、官と民の人材交流や、キャリアチェンジを考えている方に向けたお話が伺えればと考えています。吉川さんはヤフーやメルカリなど政策企画力が強い企業でのご経験があるので、私自身学ばせていただくのを楽しみにしています。

はじめに、吉川さんが経済産業省に入省するまでについてお聞かせください。

大学進学のきっかけ

吉川)私は大学進学を機に上京したのですが、それまでは北海道の上磯町(現北斗市)で学生時代を過ごしていました。1997年の北海道拓殖銀行の破綻などもあって、その頃は北海道全体が少し暗い雰囲気にだったように思います。そんな中でテレビの報道などを通じ、何も金融の知識がない高校生ながらも「経済ってどうも大事なものみたいだな」と感じていました。

ところが周りの知り合いには大学に進学する人はほとんどおらず、地元で就職している人も多かったので、今の環境を飛び出してチャレンジしたいと考えるようになり、大学で経済を勉強しようと思って受験勉強を始めました。

瀧)そのような原体験がおありだったのですね。最近だったと思うのですが、吉川さんがTwitterで、奨学金を完済されたことと、10代の頃のご自身の意思決定は正しかったと振り返る発信をされておられましたよね。

(吉川さんにツイートの引用の許諾をいただきました)

吉川)やはり周りで大学に進学する人はとても少なかったですし、あまり勉強に打ち込む環境ではなく、当時の自分の環境で、将来自分がやりたいことをやるには受験勉強をするしか無いのかなと自分で感じたことが背景にあると思います。

ただ、これはある意味、表向きのきれいな理由ですが、実態としては、経済的に豊かな家庭環境ではなく、悔しい経験も多くあったので、勉強では周りのクラスメイトなどに勝つことができたというようなコンプレックスがあったと思います。高校1年生の頃から過去問を解いて傾向を掴むなど、3年かけて大学受験の対策を積み重ねると、意外と大学受験というのは、「ハック」しやすいなと実感し、自分の時間をどんどん受験勉強に投資していきました。

瀧)失礼かもしれないのですが、吉川さんにこれまで抱いていたイメージとギャップがあり、とても新鮮でした。私の勝手なイメージでは有名私立高校などを卒業された方なのかなと思っていました。

吉川)一方で、高校に進学したタイミングで周囲とのコミュニケーションは少なくなっていきました。中学時代までの同級生は高校を卒業して就職する人がほとんどなので、高校に進学した後はそれ以前の人間関係はほとんど無くなっていきましたね。

学部から大学院への進学と就活

瀧)確かに大学進学者が多くない地域では、モチベーションに対するギャップが生まれてしまいますよね。その後、どんな学生生活だったのですか?

吉川)受験勉強はなんとかハックできたのですが、大学生活に馴染むまでにかなり時間がかかりました。学部生のころは友達も少なく、ほとんど就活もせず、「3年生になったら就活するものなの?」という認識でした(笑)。完全に就活に乗り遅れたことで大学院への進学を選ばざるを得なかった面もあり、進路の決定を先延ばしにしてしまった感覚はありました。修士の時の就活はとても苦労しましたね。

一方で、学部生の頃にゼミを通じて「やっぱり経済学って面白いな」と感じたことは、大学院に進むことを決めた大きなきっかけでした。当時は研究者になれると良いなと思っていましたね。

瀧)コミュニケーション力の高さを常々感じる吉川さんから、友達が少なかったというお話を伺うのは意外です!

吉川)今振り返って考えると、東京の生活になれるのに数年かかったんだと思います(笑)。地方から出てきて一人暮らしで、大学では友達もできず、経済的に厳しい状況なのでバイトばかりしていた為、東京でコミュニティに溶け込んでいくのに時間がかかったのではないかと、今では振り返っています。

瀧)大学院ではどのような研究をされていたのですか?

吉川)国際貿易をテーマに修士論文を書きました。院生30人くらいで2年間を過ごしましたが、そこで本当に優秀な人たちを見て圧倒的な能力差を感じてしまいました。そのため研究者としては難しいなと思い、結局就活をすることにしたのです。

瀧)就活の際は国家公務員試験一本だったのでしょうか。

吉川)民間企業の就活もやっていましたが、何十社と選考に落ちました。某保険会社からほぼ唯一内定をいただいたのですが、もし保険会社で勤務していたらどういう人生を歩んでいたのかなと思うことがあります。

経済産業省での公務員としての仕事

瀧)仰るとおり、官庁か民間か、民間ならどういう企業の選択をするかは大きな転機ですね。

そろそろ経済産業省に入省される時のお話を伺いたいと思います。凄く普通のことを聞いてしまうんですが、国一を受けたあとに、省庁を選ぶんでしたっけ?

(オンライン対談の様子 吉川さん(写真左)と瀧(右))

吉川)はい、当時の話になりますが、筆記試験があり、その合格者が「官庁訪問」と呼ばれる2週間程の面接プロセスに進みます。官庁訪問では原則、3省庁への訪問希望が出せるので、私は経産省、総務省、財務省に希望を出し、面接を経て経産省に入省することとなりました。配属先は、WTO交渉などを行う「通商機構部」というところでした。大学院でWTOとFTA/EPAに関する研究をしていたこともあって、自分の研究テーマに関連する部署に配属されて良かったなと思いました。

ただ実際に働き始めて実感したのは、通商交渉の世界は法律・政治の世界であり、経済学の世界とだいぶ違うなということでした。膨大なロジ業務(日程調整、フライトや宿泊場所の確保、出張者向けの機材や資料の準備等)に追われて激務の日々でしたが、実際の通商交渉の現場に触れることができ、貴重な経験になりました。この当時の通商政策に関する業務経験は、その後の内閣官房でのTPP交渉の仕事に活きていますし、今のデータを巡る国際的な政策の議論にも通じるものがあります。

瀧)日本銀行への出向はそれから数年後になるのでしょうか。

吉川)入省1~2年目の経産省でのWTOの業務の後、3~4年目に日銀に出向しました。

日銀の金融市場調節(いわゆるオペ)の担当部署という、金融政策の実行におけるコアといっていい部分を担当する業務に携わる機会に恵まれました。日銀での業務は、霞が関と異なり、経済学や金融論の知識がダイレクトに活きるものであり、時間的な余裕もあったのですが、出向して数ヶ月でリーマンショックが起こったため、業務としてはかなり忙しくなりました。その中で国内株式市場の日々のモニタリングを任せられ、毎日市況レポートを書いていました。毎日、bloombergやQUICKを叩いてデータを取り出して分析したり、市場関係者にヒアリングしながら市況レポート作成し、夕方にはそのレポートを金融市場局長(当時の局長は中曽 前日本銀行副総裁)に説明するということを繰り返していましたが、若手にとっては非常に良い訓練の場だったと思います。

瀧)一つ前の業務と比べて、振れ幅が広い・・・ですね。

吉川)そうですね。数ヶ月前まで通商交渉のロジ業務で徹夜を重ねていたような生活だったのが、出向後すぐに日銀の金融市場局長に国内株式市場の市況解説することになっているという、本当に不思議な感覚でした。日銀には2年ほど在籍し、その後2010年に経産省に戻ることになりました。

瀧)経産省に戻ってからも、主として通商関連の業務をされていたのですか?

吉川)日銀出向までの約2年は主として通商関連の業務だったのですが、経産省に戻ってからは「情報経済課」という国内のIT政策を担当する部署に配属となりました。当時の情報経済課は、現在で言うところの産業のDX化に通じる課題意識を当時から持っており、純粋にIT分野に閉じた政策ではなく、エネルギー、製造業、ヘルスケア等のさまざまな分野にいかにITを取り入れて革新していくかという政策を指向していました。当時私は、「電力とIT」をテーマに、スマートグリッドやスマートシティ・コミュニティなどに携わっていました。

瀧)ちょうど米国でも、当時のオバマ大統領が「グリーン・ニューディール」を推進していた頃ですよね。オバマ政権ではエネルギーの独立性が重要視されていた記憶があります。私も2009年からスタンフォードに留学していたのですが、同級生の2割程度が環境に関するイノベーションの専門コースをとっていました。

吉川)そうですね。当時の日本はまだ東日本大震災前だったので、電力需給の逼迫という課題の切迫度も高くはなく、こうした政策への必要性への合意も含め、交渉や調整が難航していたように思います。エネルギー分野にいかにITを取り入れてもらうかということを考え、米国西海岸に出張に行ったりしていた中で、最近も「データ分析の力」という本を出された伊藤公一朗先生が当時UCバークレーにいらっしゃったので、お話を伺ったり、今デジタルプラットフォームに関する政策の検討の中心にいらっしゃる京大の依田高典先生にお話を伺い、不思議と現在まで続く縁があります。

転職を考えられた頃について

瀧)実際に経産省から転職されたのは、それから何年か経った後だったのですか?

吉川)情報経済課から、内閣官房の副長官補室に異動して1年、その後、同じく内閣官房のTPP政府対策本部に異動して1年勤務し、その後転職しました。副長官補室の業務を説明するのは難しいのですが、内閣を支えるスタッフとして、経産省が関与する政策全般に携わる仕事をしていました。2012-2013年当時に大きかった政策テーマとしては、大飯原発の再稼働や、夏と冬の電力需給の逼迫に対応するための節電要請の必要性や節電目標の検討などでした。その後、2014年の安倍政権の時にTPP交渉に日本も参加すると表明し、政府として一元的に交渉するための体制を整備するため、TPP政府対策本部が立ち上がりました。私は、その本部に異動し、交渉に向けた交渉団のインフラ整備や情報管理ルール作りを担当し、交渉開始後は実際に交渉団として出張する日々が続きました。

瀧)省庁では、様々な社会の仕組みを熟知できるような人事が組まれるのですね。

吉川)一つの省庁だけでなく、内閣官房で仕事をすることで、官邸を中心にどのように省庁間の意見調整がなされているか、最終的にどのように政策が決定されるかについて理解が進みました。その後、民間に転職して、多くの省庁と仕事をするようになりましたが、今でも内閣官房時代の経験が活きていると感じます。

前半の記事はここまでです。後編では吉川さんが民間に転職された後のお話や官民で人材が流動的に行き来する「リボルビングドア」について伺った内容をお送りします。後編についてはこちらからご覧いただけます。

また、本記事は、株式会社メルカリとのコラボ企画で、メルカリの政策企画ブログ「merpoli(メルポリ)」にも連携記事『Chief of Public Affairsに就任したマネーフォワード瀧 俊雄さんに、その可能性について聞いてみた(前編)』が掲載されています。

是非こちらの記事も併せてご覧ください。

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